新宿の母が作り上げた伝説の数々を
あなたも体験してください
最初はうまくいかないときもあったけど……一人でも多く相談に乗れるよう、食事もトイレも忘れて夢中で鑑定していました。あなたのお悩みも私に聞かせてくれないかしら?
私のことを「新宿の母」と名付けたのは、雑誌の編集者さん。そこから全てが始まりました。「お母さんよりもお母さんみたい」 と言ってくれる方もいて、とても嬉しかったわ。
ここまで続けてこられたのも皆さんの支えがあってこそ……ありがとうございます。長年の鑑定で培ってきた鑑定力は、これからもあなたの幸せのために惜しみなく使っていくわ。
皆さんに日頃の感謝を込めて特別にパックメニューを用意しました。私の人生とも言える60年分の鑑定力をぜひ体感してくださいね。
今でも交流のある方はいるの。ありがたいことに占い企画のTV番組にも沢山、出演させて頂きました。なかなか経験することのできない貴重な体験だったわ。
私が見てきたものを全てお伝えしましょう。現在に至るまで60年分の過去と、現在から子供や孫の世代にあたる60年先の未来について、お話しさせてください。
私が占い師として新宿の街頭に立ちはじめたのは、昭和33年4月1日のことでした。60年前は、大変でしたよ。満州から風呂敷ひとつ持って引き揚げてきた人たちが、行き場がなくてさまよっていたり、当時はお金のために自分の子を売る親もいてね…今の若い人たちは信じられないと思うけれど、売春させるためになんですよ。「自分を売った親を恨んでいるから、家には帰りません」という女の子もたくさんいたわ。そんな人たちが、毎日並んでいました。
彼女たちは誰も頼る人がいなければ、彼女たちの幸せを願う人もいなかったの。それで決めたんです。「母になろう」と。幸せになる方法を一緒に考えてあげる存在が彼女たちには必要だったから。そのうちに、みんな私のことを「お母さん」と呼ぶようになり、いつしか『新宿の母』と世間からも呼ばれるようになっていきました。
はじめの頃は、お巡りさんに罰金を取られたり、銀行からも「この場所を使わないでください」って怒られたりもしました。でも、その日の売り上げを毎日全部銀行に預けていたら、だんだん銀行の人が並んでいる人たちを整理してくれるようになったの。辛くて辞めようと思ったことも3回ぐらいあったけれど、親に勘当されていたから、故郷に帰ることもできなかったんです。でも、辞めずに頑張ってきたから今があると思っています。そして今では、親子3代にわたって、結婚の相性をみてあげたり、名付けをしてあげたりして、おつきあいが続いている人も多いんですよ。これは、とっても幸せなことだと思っています。
60年後は2078年、三碧木星の年になります。この年は、スポーツや芸能界でも若い人が活躍したり、新しいものがどんどん開発されたりする年になるでしょう。好奇心旺盛に、みんながいろいろなことにチャレンジして、明るく元気な年になるのではないかしらね。占いもなくなることはないでしょう。
最後までご覧いただきありがとうございました。
あなたの不安や悩みが少しでも晴れたのなら幸いです。
またいつでもいらしてくださいね。
新宿の母・栗原すみ子